保田與重郎 (『図書館だよりvol.120』掲載分)
郷土資料室には、桜井市出身の文芸家保田與重郎氏のコーナーを設けています。数多くの著書をはじめ、ご本人がもっておられた本を集めた「保田コレクション」、そして日本浪曼文学に関連する文献や作家の本も集めて開架しています。(※1)
保田氏が誌名も提案し中心となって刊行した『コギト』(※2)も開架しています。タイトルは、哲学者デカルトの言葉「Cogito ergo sum=我考う、故に我在り」が由来です。この雑誌に関する保田氏の遺稿が掲載されている本があります。(※3)
田中克己氏の解説と著者別書目索引が掲載されている本もあります。(※4)
(※1)『空ニモ書カン 保田与重郎の生涯』(吉見良三 著/淡交社)(K910.2 ヤ)
(※2)『コギト』(臨川書店)(K905 コ)
(※3)『浪曼派 第十二号 保田与重郎追悼号』(出雲書店)(K910.2 ヤ)
(※4)『コギト 別冊』(臨川書店)(K905 コ)
樋口清之 � (『図書館だよりvol.119』掲載分)
前号でご紹介した『梅干と日本刀』以後、樋口清之氏は「梅干し博士」として知られます。日本文化の優秀さが書かれているシリースがあります。(※1)
日本の歴史についても「古代の人たちの生き方や優れた外交政策は何よりのお手本になる」と著しています。(※2)
「わが家系の中の日本史」の項には、樋口家のルーツも記載されています。(※3)
樋口清之 � (『図書館だよりvol.118』掲載分)
樋口家は、織田長益(有楽斎)の子孫の家臣として在住した宮部氏の出で、芝村(現桜井市芝)に住み、ここを原籍地とされたそうです。樋口清之氏は、その後父親の仕事の関係で奈良市に移り、中学の時にはまた桜井市芝で下宿したと書かれています。この頃からすでに、考古学者としての道ができたようです。(※1)
日本古代からの生活も幅広く研究、独特な日本文化や多くの知恵を国内外に紹介した著書『梅干と日本刀』3部作は、100万部を越えるベストセラーになりました。(※2)
好評だった上記の著書は続編や新編としても刊行されています。(※3)(※4)
森本六爾 � 藤森栄一 (『図書館だよりvol.117』掲載分)
前号に記載しました森本六爾著『日本農耕文化の起原』は七回忌追悼のために、藤森栄一氏が編集したものです。東京考古学会に属し森本六爾氏を師と仰ぎましたので、出身は長野県ではありますが、関連図書として郷土資料室に開架しています。ちくま少年図書館『心の灯』(※1)には、最初の発掘で森本氏と出会った事が書かれています。(※1)
藤森氏が考古学の道をすすむようになったのは、森本六爾氏との出会いが大きく影響しているようです。(※2)
藤森氏が「私の原型ともいうべく本」と称している『かもしかみち』(※3)をはじめとして、『藤森栄一全集』(※4)も郷土資料室に集めて開架しています。
(※1)『心の灯 考古学への情熱』(藤森栄一 著/筑摩書房)(K21 フ)
(※2)『銅鐸』(藤森栄一 著/学生社)(K210.2 フ)
(※3)『かもしかみち』(藤森栄一 著/学生社)(K210.2 フ)
(※4)『藤森栄一全集』(藤森栄一 著/学生社)(K210.0 フ)
森本六爾 � (『図書館だよりvol.116』掲載分)
森本六爾氏は、昭和11年32歳という短い生涯を閉じましたが、考古学者として大きな功績を残したと『森本六爾伝』著者の藤森栄一氏は記しています。(※1)
弥生時代から日本の農業は始まったという説は、森本六爾著『日本農耕文化の起源』の中の「日本に於ける農業起源」という章に記述されています。(※2)
『日本考古学研究』には、彌生式文化の詳細な解説をはじめ、青銅器や銅劍銅鉾の研究も掲載されています。(※3)これらの他にも、郷土資料室には『森本六爾関係資料集1』『森本六爾関係資料集 2』(※4)等を開架しています。
(※1)『森本六爾伝』(藤森栄一 著/河出書房新社)(K289.1 モ)(K289.1 モ)
『二粒の籾』(藤森栄一 著/河出書房)(K289.1 モ)
(※2)『日本農耕文化の起原』(森本六爾 著/葦牙書房)(K210.2 モ)
(※3)『日本考古学研究』(森本六爾 著/桑名文星堂)(K210.2 モ)
(※4)『森本六爾関係資料集』(奈良県立橿原考古学研究所 編/由良大和古代文化研究協会)(K289.1
森本六爾 � 妻・ミツギさん (『図書館だよりvol.115』掲載分)
森本六爾氏と妻のミツギさんとの出会いは、考古学研究会のグループの一人が上総国分跡への遠足の日に連れてきたのがきっかけだそうです。ミツギさんも考古学に興味があったので、すぐに意気投合。一週間後には結婚を誓いあいました。(※1)
ミツギさんは、森本氏が手掛けていた雑誌『考古学』の刊行や編集の手伝い、さらには研究に専念できるようにと、生活費を担い一心に支えました。(※2)
結婚して六年、教師や編集や子育てと、休む間もなく走り続けていたミツギさんでしたが、疲労が重なり結核にかかってしまいます。(※3)
森本六爾 � (『図書館だよりvol.114』掲載分)
「森本六爾氏は、明治36年3月2日桜井市大泉の農家の家に生まれました。少年のころの様子が『月刊奈良』の歴史閑話に掲載されています。(※1)
進学を断念せざるしかなかった森本少年は、学校の代用教員となって働きはじめるが、唐古池通いは続きました。(※2)
山の辺の道 (『図書館だよりvol.113』掲載分)
「山の辺の道」「山辺の道」「山ノ辺の道」などの表記があります。保田與重郎さんは著書『万葉路 山ノ辺の道』で、山の辺の道の自然美をたたえて記されています。(※1)
和田萃さんは、山辺の道の歴史的価値として、多くの文献をあげて説明されています。(※2)
同書によりますと、山辺の道が認識されたのは、持ち歩きに便利で内容も充実していた大和路叢書第6巻『山の辺の道』(昭和16年刊行)の存在が大きいとのことです。(※3)郷土資料室には、昭和44年出版田中日佐夫さん著、同47年・朝日新聞奈良支局編、同50年・金本朝一さん著の本等も開架しています。これらの旅行ガイドを読みますと、この時代から今もかわらぬ美しい歴史と景観を残していることがわかります。(※3)
(※1)『万葉路 山ノ辺の道』(保田與重郎 著/新人物往来社)(K911.12 ヤ)
『保田與重郎文庫 17』(保田與重郎 著/新学社)(K918.68 ヤ)
(※2)『古代を考える 山辺の道』(和田萃 著/吉川弘文館)(K216.5 ワ)
(※3)『大和路 〔6〕』(新井和臣 編纂/近畿観光会)(K291.6 ヤ)
『山の辺の道』(金本朝一 著/綜文館)(K291.6 カ)
『山の辺の道』(朝日新聞奈良支局 編/創元社)(K291.6 ア)
桜井市史 (『図書館だよりvol.112』掲載分)
桜井市が発行している『桜井市史』(※1)の編纂は、市制施工20周年を記念して昭和50年7月に始まりました。それまで刊行されていた『桜井町史』(※2)、『桜井町史 続』(※3)、『大三輪町史』(※4)、『郷土』(※5)を基に、3年計画で進みました。
昭和50年11月15日号の『桜井市政だより』には、編纂委員の方々の紹介が掲載されています。(※6)
昭和55年2月に上下2巻が完成、15日より頒布予約の受付がスタートしました。下巻には「新市史に序す」と題して、保田与重郎氏の序文が掲載されています。(※1)
(※1)『桜井市史 上下』(桜井市史編纂委員会 編集/桜井市役所)(K216.5 サ)
(※2)『桜井町史』(桜井町史編纂委員会 編集/桜井町役場)(K216.5 サ)
(※3)『桜井町史 続』(桜井町史編纂委員会 編集/桜井市役所)(K216.5 サ)
(※4)『大三輪町史』(桜井市役所 版権所有者/臨川書店)(K216.5 オ)
(※5)『郷土 上之郷・初瀬・吉隠・大福・吉備』(桜井市)(K216.5 キ)
(※6)『桜井市政だより 自昭和50年 至昭和51年』(総務課 編集/桜井市役所)(K318.5 サ)
聖徳太子と土舞台 (『図書館だよりvol.111』掲載分)
聖徳太子が四十一歳の時(推古天皇二十年)、百済より伝わってきた舞楽や伎楽を、桜井の地で、少年達を集め習わせました。(※1)
保田與重郎氏は、この場所こそが、桜井市の児童公園の一角にある「土舞台」であり、桜井市は芸能発祥の地であると著しています。(※2)
栢木喜一氏は、上記の冊子が刊行されたいきさつを記しています。(※3)
出雲人形 (『図書館だよりvol.110』掲載分)
出雲人形の始まりは、出雲の野見宿禰であると伝わっています。『奈良県磯城郡誌』(※1)の「出雲」の項には、日本書記の記述にふれながら書かれています。
『大美和』の第29号から33号には、瀧本知二さん(郷土史家)による出雲人形の連載記述が掲載されています。(※2)
昭和十四年発刊の會誌「磯城」第二巻第五號には、この一軒だけ残っておられた製作家水野徳造氏の談が掲載されています。(※3)
三輪素麺 (『図書館だよりvol.109』掲載分)
三輪素麺の謂れは、『古事記』中巻・崇神天皇の「三輪山の大物主神」伝説からきた説話のようです。(※1)これに関して、『三輪素麺悠久の歩み』の中に、「三輪素麺の起源と展開」/樋口清之さん(元国学院大学名誉教授)の記述が掲載されています。(※2)
三輪山麓の風土も、おいしい素麺を作るのに適しています。(※3)
素麺の食べ方は、冷やそうめんが代表ですが、その他にも温かい入麺や洋風にいためてもおいしいです。(※4)
山田寺 (『図書館だよりvol.108』掲載分)
孝徳天皇(大化五年三月)の時代、石川麻呂大臣は謀反の疑いをかけられ、長男が造営にあたっていた山田寺に逃れ、「この寺は、われのためではなく、天皇のためにと造ったものだ。」と、冤罪を訴えながら自決しました。(※1)
山田寺は、その後造営が一時中断しながらも、天武十四年に伽藍が完成しました。後に藤原道長は、同寺を称して「奇偉荘厳」と讃えました。(※2)
奈良文化財研究所は、1976年から1996年にかけて行った発掘調査をまとめ、「本文」・「図版編」として刊行しました。(※3)
桜井木材協同組合は昭和54年に30周年を、平成11年に50周年を記念して冊子を刊行しました。その中に、駅前のモニュメント作成のことが書いてあります。(※3)
郷土資料室に、明治18年恵所筆のこの相撲絵図が飾られています。穴師大兵主神社で昭和37年7月、大鵬・柏戸両横綱による土俵入りも行われ、時津風理事長名の祭文が展示ケースに収められています。(※2)保田與重郎氏も、この奉納土俵入りには尽力しました。(※3)今年は、それより50年がたち、現理事長の北の海親方名による祭文が、八角親方の手により、新たに奉納されました。これも、展示ケースの中に収められています。
野見宿禰神社が建っている字カタヤケシについては、樋口清之氏も書いています。(※3)
聖林寺と十一面観音菩薩立像 (『図書館だよりvol.102』掲載分)
聖林寺は桜井市下にたたずむ古刹で、門前からは大和盆地が一望できます。本尊の十一面観音菩薩立像は、昭和26年に国宝に指定され、多くの文人達がその美しさを記しています。保田與重郎氏も「聖林寺の寺と佛」の章でふれています。(※1)
安倍寺と安倍文殊院 (『図書館だよりvol.101』掲載分)
『桜井市歴史散歩』によると、安倍文殊院はもともと安倍寺の一院で、安倍氏一族の墓所だったらしいと記載されています。(※1)
実際に発掘調査が行われ、安倍寺跡からは礎石や遺溝が見つかっています。(※2)
『安倍文殊院史』には、お寺の歴史や安倍一族についても記述されています。(※3)
本年2月に、本尊文殊菩薩群像が、国宝に指定されました。(※4)
(※1)『桜井市歴史散歩』(栢木喜一 著/桜井市)(K291.6 カ)
『安倍村の史蹟』(奈良県磯城郡安倍尋常高等小学校 編/安倍村)(K216.5 ナ)
(※2)『阿部氏 〜桜井の古代氏族〜』(桜井市文化財協会 編)(K210.3 ア)
(※3)『安倍文殊院史』(東快應 著/安倍文殊院)(K185.9 ア)
(※4)『安倍文殊院』(東快應 著/安倍文殊院)(K185.9 ア)
音羽山観音寺 (『図書館だよりvol.100』掲載分)
音羽山観音寺は、標高851mの音羽山の中腹に建っています。下居のバス停から、約1.8キロ徒歩で約50分登っていきます。登り口には杖が用意されています。昭和五十三年奈良新聞社出版の『わたしの大和路』(※1)に、名水の地として紹介されています。
「開創一二五○年の謎を探る」という副書名がついている『観音寺ものがたり』は、本尊千手千眼観世音菩薩の平成大修理にもふれ、記述されています。(※2)
観音寺までの道程には、笠塔婆型の「丁石」が建っています。(※3)
談山神社と藤原鎌足 (『図書館だよりvol.99』掲載分)
談山神社の創建は、藤原鎌足の長子・定恵(貞恵)が、遺骨を多武峯山で荼に伏したことから始まっていると、談山神社の縁起に記載されています。(※1)『延喜式』の「諸陵寮」(※2)には「多武岑墓 贈太政大臣一位淡海公藤原朝臣」と記載されています。
一方、定恵は665年、唐から帰国直後に死去したとの記述もあります。(※3)
定恵は文字の読み書きに優れ、外交力もあり、鎌足の期待も大きかったようです。
等彌神社と鳥見山 (『図書館だよりvol.98』掲載分)
鳥見山の麓に鎮座する等彌神社は、十世紀前半に制定された『延喜式』(※1)の神名帳にも記載されている延喜式内社で、千数百年の歴史と伝統を有しています。境内には、百六十基の石灯籠をはじめ、多くの石造物があります。『等彌神社の石造物』(※2)には、それらの石に刻まれている文字について詳しく掲載されています。
鳥見山は、橿原神宮で即位した初代天皇・神武天皇が、霊畤を設け、最初の大嘗祭が行われたと伝えられ、榛原説と生駒説が存在しています。(※3)桜井説として明治42年に文学博士の久米邦武博士が実地調査して、『金鵄の光』を著しています。(※4)
(※1)『延喜式 九』(藤原時平ほか 著)(R322.1 エ)
(※2)『等彌神社の石造物 改訂版』(大倉好弘 編)(K216.5 ト)
(※3)『金鵄發祥史蹟考 全』(池尾宥祥 編輯/金鵄會)(K216.5 キ)<生駒説>
『皇祖霊畤旧蹟伝説記』(菊井惣鉄 著/鳥見山霊畤顕彰会)(K216.5 キ)<榛原説>
(※4)『金鵄の光』(久米邦武 著/大阪ホテル)(K216.5 オ)<桜井説>
本居宣長と大和 (『図書館だよりvol.97』掲載分)
国学者本居宣長は、享保15年(1730)伊勢国松阪で生まれました。34歳の時、賀茂真淵に入門『古事記』研究に着手し56歳で『古事記伝』(※1)の出版活動を開始しています。研究の合間には旅に出ることも多く、明和9年(1772)には門弟友人たち5人と共に、初瀬・吉野から飛鳥へと訪ねています。『菅笠日記』(※2)には、初瀬から見下ろした景色には感動しているようすが書かれています。
宣長が、なぜ吉野への旅立ちを決めたのかというのは、自分の出生にまつわることからでした。それだけではなく、古代の歴史の中心にある土地を自分の目で確かめるためでもありました。(※3)
図書館だより・文学の散歩道で、明治の文学者たちをおってきましたが、この号でひとまず終えることとします。次回の4月号からは、桜井市や奈良県など郷土に関する事項を掲載していきます。よろしくお願い致します。
(※1)『古事記伝』(本居宣長 著/岩波書店)(B913.2 モ)
(※2)『本居宣長全集 第9巻』(本居宣長 著/筑摩書房)(121.5 モ)
『新日本古典体系68 近世歌文集 下』(鈴木淳 校注/岩波書店)(918 シ)
(※3)『日本文化史研究 第14号』(青山茂 文/日本文化史学会)(K210.1 ニ)
樋口一葉 から 「郷土の道しるべ」 へ (『図書館だよりvol.96』掲載分)
樋口一葉は、明治5年(1872)東京都で生まれました。小学校を主席で卒業後、14歳で中島歌子の歌塾に弟子入りします。20歳より、小説家として生きることを決意しますが、生活は苦しく多方面から借金を繰り返します。日記にも書かれています。(※1)
25歳で「たけくらべ」」(※2)を『文學界』に発表後、露伴・緑雨・鴎外などから絶賛されて以後は、小説家としての地位を固め、春陽堂からは専属作家として契約を求めらます。小説家をめざした頃から、一葉は盛んに上野図書館に通いました。(※3)
図書館だより・文学の散歩道で、明治の文学者たちをおってきましたが、この号でひとまず終えることとします。次回の4月号からは、桜井市や奈良県など郷土に関する事項を掲載していきます。よろしくお願い致します。
(※1)『ザ・一葉』(樋口一葉 著/第三書館)(918.68 ヒ)
(※2)『にごりえ・たけくらべ』(樋口一葉 著/岩波書店)(B913.6 ヒ)
(※3)『樋口一葉をよむ』(関礼子 著/岩波書店)(910.2 ヒ)
馬場孤蝶 から 樋口一葉 へ (『図書館だよりvol.95』掲載分)
馬場胡蝶は、明治2年高知で生まれました。10歳の時、両親とともに上京。21歳で明治學院普通學部入学、卒業後は、高知の共立學校教師に赴任します。25歳で帰京後、『文學界』の同人に加盟して、はじめての詩「酒匂川」(※1)を発表しました。
以後小説、随筆、俳句など誌上で活躍しました。明治39年から昭和5年まで、慶應義塾で文學部教授を務め、72歳肝臓がんのため死去。
随筆「蝶を葬むるの辭」(※2)を、高山樗牛は「正に是れ所謂厭世思想の絶頂、其語美はしくも穏やかなれども、其意の激しく暴きは、バイロンがマンフレッドも、よもや是の上に出づる能はざるべし」((※2)の、あとがきより抜粋)と、評しました。
胡蝶は、一葉の日記を博文館より出版する際に、校正を手がけました。
(※1)『明治文學全集60 明治詩人集(一)』(外山正一 著/筑摩書房)(918.6 メ)
(※2)『明治文學全集 32女學雑誌文學界集』(巌本善治 著/筑摩書房)(918.6 メ)
斎藤緑雨 から 馬場孤蝶 へ (『図書館だよりvol.94』掲載分)
齋藤緑雨は、慶應3年三重県鈴鹿で生まれました。12歳の時、父親の影響で俳句に出会いました。詩分にも親しみ、14歳の頃より新聞に投稿などもはじめました。18歳で假名垣魯文の門下生となりました。21歳で『めざまし新聞』(『自由之燈』の後身)に入社以後、生稿を連載しはじめ文壇の世界で活躍しました。彼の文學には、辛口の批評や風刺がよく見られます。『眼前口頭』にも、それを感じさせる文章が多くあります。(※1)
31歳の時に、初めて馬場孤蝶と出会い、急速に親しくなりました。38歳、肺患の為永眠しています。孤蝶は『齋藤�雨君』を書いています(※2)
(※1)『緑雨警語』(斎藤緑雨 著/冨山房)(917 サ)
(※2)『明治文学全集28斎藤緑雨集』(斎藤緑雨 著/筑摩書房)(918.6 メ)
坪内逍遥 から 斎藤緑雨 へ (『図書館だよりvol.93』掲載分)
坪内逍遥は、安政6年美濃国に生まれました。幼い頃より芝居ごっこが好きでした。14歳の時愛知洋学校で英語を学び、シェークスピヤ劇に出会います。18歳開成大学(現東京大学)・文学部に入学、英国小説を愛読し、私立進文學社で英語を教えたり、翻訳もしました。28歳で『小説神髄』(※1)を刊行。32歳よりシェークスピヤの講義や翻訳を始めるなど、シェークスピヤとは終生を通じ関わりました。(※2)
『小説神髄』では、小説と演劇を論じています(※1)
文壇での交友関係が始まった頃、「今日新聞」の記者だった斎藤緑雨が一番初めに来訪しています。
(※1)『小説神髄』(坪内逍遥 著/岩波書店)(B901.3 ツ)
(※2)『シェークスピア入門』(坪内逍遥 閲 中央公論社 著/中央公論社)(Kヤ932.5 シ)
二葉亭四迷 から 坪内逍遥 へ (『図書館だよりvol.92』掲載分)
二葉亭四迷は、文久3年江戸市ヶ谷に生まれました。本名は辰之助。17歳、東京外国語学校露語科に入学。成績優秀で、学費を支給されるほどでした。22歳で『浮雲』(※1)の稿をおこし、翌年初めて二葉亭四迷の名で刊行しました。親の世話を受けずに独立独学のためのお金を得るために書きました。(※2)
二葉亭四迷は、22歳の時に坪内逍遥を初めて訪ねて以来、公私にわたり師事し頼っていました。「・・・逍遥はこんな二葉亭を許し、問題を持ち込むたびに相応の面倒を見てやる関係は永くつづいた」(本文引用)、こんな手紙も送っています。(※3)
(※1)『浮雲』(二葉亭四迷 著/岩波書店)(B913.6 フ)
(※2)『平凡 私は懐疑派だ』(二葉亭四迷 著/講談社)(B913.6 フ)
(※3)『二葉亭四迷の明治四十一年』(関川夏央 著/文藝春秋)(910.2 フ)
内田魯庵 から 二葉亭四迷 へ (『図書館だよりvol.91』掲載分)
内田魯庵は、明治元年江戸下谷に生まれました。本名は貢、別号不知庵です。23年に出会ったロシア文学の『罪と罰』に(※1)深く感銘を受け、文人としての道を目指しはじめました。本書を初めて訳したのも魯庵です。評論家・作家・翻訳家など多方面にわたり活躍した魯庵ですが、夜の銀座を徘徊してその風景を満喫したり、読書を自然体で楽しむ姿など、人間味あふれた側面も持っていました。(※2)
魯庵は25歳の時に二葉亭四迷と出会い、急速に親しくなりました。最初に出会った思い出や、彼の人となりを『思い出す人々』(※3)に温かみのある文章で綴り、「誰に会った時よりも二葉亭との初対面が最も深い印象を残した」とも述べています。
(※1)『罪と罰』(ドストエフスキー 著/岩波書店)(983 ド)
(※2)『魯庵随筆 読書放浪』(内田魯庵 著/平凡社)(914.6 ウ)
(※3)『新編 思い出す人々』(内田魯庵 著/岩波書店)(910.2 ウ)
笹川臨風 から 内田魯庵 へ (『図書館だよりvol.90』掲載分)
笹川臨風は、明治3年東京神田に生まれました。父が内務省土木の役人だったため、小学校は大阪・名古屋と転校しています。東京帝国大学入学後は寄宿舎に入り、姉崎嘲風とは同室でした。専攻は日本美術史で、『帝国文学』の編集に参加した他に、句会も結成しました。「櫻花記」(※1)には、奈良の自然を記述しています。
臨風は、帝大卒業後文學社の『日本歴史教科書』などを編纂します。明治34年九月『奈良朝』を出しました。(※2)
臨風と内田魯庵は、東京の松前小学校という同じ小学校に通っていました。
魯庵が亡くなったときには、臨風らによって友人葬が営まれました。
(※1)『現代日本文學全集13』(笹川臨風 著/改造社)(918.6 ゲ)
(※2)『奈良朝』(笹川種郎 著/博文館)(K 210.3 サ)
姉崎嘲風 から 笹川臨風 へ (『図書館だよりvol.89』掲載分)
姉崎正治(嘲風)は、1873年京都府に生まれました。東京帝国大学卒業後、宗教学研究のために文部省から留学、ドイツ・イギリスなどで学びました。文才もあり、帝大時代には高山樗牛らと『帝国文学』を創刊しました。第17巻に「青年の文學と中年の文學」(※1)を掲載しました。
嘲風は、留学からの帰途中に樗牛の訃報に接します。帰国後、墓に詣でた様子を追憶文「�見潟の一夏」に、書いています。(※2)
笹川臨風とともに『樗牛全集』も編集しました。
(※1)『明治文学全集 40』(高山樗牛 著/筑摩書房)(918.6 メ)
(※2)『現代日本紀行文学全集 補巻一』(志賀直哉ほか 著/ほるぷ出版)(915.6 ゲ)
齋藤野の人 から 姉崎嘲風 へ (『図書館だよりvol.88』掲載分)
齋藤野の人は、六男三女の兄弟のうち四男として生まれました。高山樗牛は次男でしたが、何かにつけ優れているこの兄とは、常に比べられていたようです。受けがよかった兄に比べ、大人しく無口な子どもでしたが、二高に入学後、文才を発揮しはじめました。(※1)
野の人も、兄の思い出を「亡き兄高山樗牛」(※2)に書いています。
彼も病弱で31年という短い生涯でしたが、友には恵まれ、姉崎嘲風もその一人です。
(※1)『近代文学研究叢書 10』(昭和女子大学近代文学研究室 著/昭和女子大学)(910.2 シ)
(※2)『明治文學全集 40』(高山樗牛 著/筑摩書房)(918.6 メ)
高山樗牛 から 齋藤野の人 へ (『図書館だよりvol.87』掲載分)
高山樗牛は、明治4年山形県で生まれました。幼き頃より文才があり、13歳で『小学雑誌』に作文を発表しています。第二高等中学校も主席で卒業、翌年24歳のときに懸賞募集に応募するために書いた小説『滝口入道』(※1)は、優等賞に当選しています。
31歳頃より、ニーチェを讃美し「文明批評家としての文學者」(※2)を『太陽』に発表しています。
樗牛の人生観や思考は、「郷里の弟を戒める書」(※3)の中に垣間見られます。
齋藤野の人は、高山樗牛の実の弟です。
(※1)『滝口入道』(高山樗牛 著/岩波書店)(913.6 タ)
(※2)『明治文學全集 40』(高山樗牛 著/筑摩書房)(918.6 メ)
(※3)『新学社 近代浪漫派文庫 8』(北村透谷・高山樗牛 著/新学社)(911.56 キ)
土井晩翠 から 高山樗牛 へ (『図書館だよりvol.86』掲載分)
土井晩翠は、明治31年東京音楽学校の要請を受け、『天地有情』の中に「荒城の月」(滝廉太郎/曲)を書いています。(※1)
彼は、第二高等学校教授をつとめる傍ら、ホメロスの「イーリアス」「オヂュッセーア」をギリシャ語原典から訳しました。(※2)二高時代からの友人で詩の仲間である高山樗牛との思い出を「学生時代の高山樗牛」として書いています。(※1)
高山樗牛は、少年期より雑誌に投稿するなど文才を発揮していました。
(※1)『新学社 近代浪漫派文庫 12』(土井晩翠・上田敏 著/新学社)(911.56 ド)
(※2)『イーリアス』(ホメーロス作/土井晩翠訳/三笠書房)(Kヤ991.1 ホ)
上田敏 から 土井晩翠 へ (『図書館だよりvol.85』掲載分)
上田敏は、東京帝国大学英文科卒業後、多くの訳詩をしています。32歳の時には、「遙かに此書を滿州なる森鴎外氏に獻ず」として始まる『海潮音』(※1)が出版され、多くの外国詩が紹介されています。本書によって、西欧近代詩の真髄が伝えられました。)
彼はまた、日本の近代詩の先駆者として、与謝野晶子のことを高く評価して「『みだれ髪』を読む」に、書いています。(※2)
東京帝国大学英文科の同窓生に土井晩翠がいます。2人は共に「帝国文学」(月刊)の編集委員をしていました。晩翠は上田敏のことを秀才と評し、不可能だった完訳詩を可能にしたとさえ言っています。
(※1)『上田敏全訳詩集)』(山内義男・矢野峰人 編/岩波書店)(908.1 ウ)
(※2)『新学社 近代浪漫文庫 12巻 土井晩翠・上田敏』(新学社)(911.56 ド)
石川啄木 から 上田敏 へ (『図書館だよりvol.84』掲載分)
石川啄木は、16歳の明治35年10月に上京、翌月には新詩社の集会に参加、与謝野鉄幹に初めて接しました。翌日には家を訪問したことを日記に記しています。(※1)
鉄幹の期待に応えるべく、啄木のペンネームを使い始め、明治36年12月号の雑誌『明星』に長詩「愁調べ」5編を掲載、注目されます。(※2)翌々年には、第一詩集『あこがれ』を友人の出版社の好意で刊行します。(※2)本書には77編の詩を収め、啄木はこれによって明星派詩人とての名声を高めました。
この詩集には、上田敏による序詞と、与謝野鉄幹の跋文が寄せられています。
(※1)『石川啄木(人物叢書)』(岩城之徳 著/吉川弘文館)(910.2 イ)
(※2)『石川啄木全集 第2巻』(筑摩書房)(911.56 イ)
与謝野寛 から 与謝野晶子 そして、石川啄木 へ (『図書館だよりvol.83』掲載分)
与謝野寛こと鉄幹は、明治32年東京で、東京新詩社を結成し翌年には「明星」を創刊しました。また、古典や漢学に通じていましたので『日本古典全集』(第一期・二期)を編集しました。後世に残る仕事をすれば、売れなくてもよいと商売化はなかったと、息子の光は『晶子と寛の思い出』(※1)の中で記しています。
明治33年、新詩社拡大の為に、関西を訪れた鉄幹と晶子は出会います。その後の晶子は、影響を大きく受け、一途な思いは『みだれ髪』(※2)の中で、多く詠んでいます。
晶子は、石川啄木を弟のように思い、啄木もまた姉のように慕っていました。その啄木が若くして亡くなった時、その死を悼んで数首の歌を残しています。
(※1)『晶子と寛の思い出』(与謝野光 著/思文閣出版)(911.16 ヨ)
(※2)『日本の詩歌 4』より「みだれ髪」(与謝野晶子 著/中央公論社)(911.08 ニ)
(※3)『与謝野晶子と周辺の人びと』(香内信子 著/創樹社)(910.2 ヨ)
森鴎外 から 与謝野寛 へ (『図書館だよりvol.82』掲載分)
森鴎外が、奈良とのかかわりが深くなったのは、大正五年に医務局長を辞任した後、翌年に帝室博物館総長兼図書の頭となってからです。大正七年〜十一年の間に四度、秋の正倉院の開扉に立ち会ったりして、訪れています。この時の様子が「委蛇録」に記されています。(※1)奈良へ出張に行った時の用品控えも記録されています。(※2)
明治25年、鴎外は「観潮楼」を建てました。ここでは自ら発刊した雑誌「めざまし草」や新刊の合評会を露伴、紅葉達としたり、後には月例の歌会も開催されました。(※3)
鴎外は、正岡子規の「根岸派」と与謝野寛の「新詩社」との対立の仲立ちをするために、両派に呼びかけました。
(※1)『森鴎外全集 第三十五巻』(森鴎外 著/岩波書店)(918.68 モ)
(※2)『森鴎外全集 第三十八巻』(森鴎外 著/岩波書店)(918.68 モ)
(※3)『耄碌寸前』(森於菟 著/みすず書房)(914.6 モ)
夏目漱石から森鴎外 へ (『図書館だよりvol.81』掲載分)
漱石は、高浜虚子の薦めで、「ホトトギス」にはじめて書いた小説が『吾輩は猫である』(※1)です。最初から長編のつもりではありませんでしたが、虚子が面白がり、読者の反応も良く、長くなっていきました。本書は、猫からみた人間社会で、文明時代への鋭い観察や風刺がありますが、全編を通してユーモラスです。漱石は、実業家が嫌いらしかったと書いているのは、孫娘の夫である半藤一利です。(※2)
漱石は24歳のとき、森鴎外の作品に触れ評価しましたが、正岡子規が怒ったために、このような手紙を書いたと紹介されています。(※3)
(※1)『吾輩は猫である』(夏目漱石 著/岩波書店)(913.6 ナ)
(※2)『漱石先生ぞなもし』(半藤一利 著/文藝春秋)(910.2 ナ)
(※3)『漱石とその時代』(江藤淳 著/新潮社)(910.2 ナ)
高浜虚子から夏目漱石 へ (『図書館だよりvol.80』掲載分)
高浜虚子は中学生の時、松山に帰省した折にはじめて、正岡子規を訪問して、いろいろと話を聞きました。その後、子規と碧梧桐と三人でご飯を食べたときの様子の記述があります(※1)
子規の死後、虚子は俳句への考え方で碧梧桐と合わず、小説の方へと熱意を傾けますが、四十歳ごろから、また俳壇復帰を決意し数々の俳句を残しました。そして、同じく俳句の途を目指した次女星野立子へのことばは、愛情あふれる俳話です。(※2)
中学生だった虚子が出会い、影響を受けたもう一人が、子規の親友で大学生だった夏目漱石です。
(※3)子規没後も、漱石と虚子の交流は続きました。
(※1)『作家の自伝6 高浜虚子』(日本図書センター)(910.2 タ)
(※2)『立子へ抄』(高浜虚子 著/岩波書店)(911.36 タ)
(※3)『回想 子規・漱石』(高浜虚子 著/岩波書店)(911.36 タ)
正岡子規から高浜虚子へ (『図書館だよりvol.79』掲載分)
24歳の時、四国松山から上京してきた正岡子規は、呉竹の里として有名な根岸に住み、ここを拠点に著作に打ち込み、歌人として<竹の里人>と名乗りました。「墨汁一滴」(※1)の中で、根岸について随筆しています。
子規は35年という短い生涯を結核という病に苦しめられますが、病床にあっても、いつも誰かが訪ねてきていて、句会や短歌会をしたり、自然や風景を楽しむという姿勢を最後まで貫きました。「竹の里歌」には、ガラス戸を通して観察した歌があります。(※2)
当時、まだ珍しかったガラス障子を、庭を見られるようにと、子規の病室に取り付けたのは、高浜虚子でした。
(※1)『墨汁一滴』(正岡子規 著/岩波書店)(914.6 マ)
(※2)『日本の詩歌 3』(中央公論社)(911.08 ニ)
斎藤茂吉から正岡子規へ (『図書館だよりvol.78』掲載分)
斎藤茂吉は、第一高等学校在学中に正岡子規の代表的歌集『竹の里歌』(※1)に出会い、大きな影響を受け、自分の歌作の方向性を確信しました。その後、青山脳病院の院長を務めるかたわら、歌人として、アララギ派の中枢で活躍しました。『コレクション日本歌人選 斎藤茂吉』には、歌四十八首が、解説文とともに掲載されています。(※2)
本書には、若い茂吉の歌から、その後の波瀾にとんだ人生に迫る歌、そして晩年の歌が順を追って掲載されています。
斎藤茂吉に多大な影響を与えた、正岡子規は、松山から上京後、根岸に家を構え、この時の様子を「根岸草盧記事」というエッセイに書いています。(※3)
(※1)『日本の詩歌 3 新訂版』(中央公論社)(911.08 ニ)
(※2)『コレクション日本歌人選018』(小倉真理子 著/笠間書院)(911.16 コ)
(※3)『現代日本文学全集 第11篇』(改造社)(918.6 ゲ)
土屋文明から斎藤茂吉へ (『図書館だよりvol.77』掲載分)
歌人であり、国文学者でもある土屋文明は、『万葉集』の研究で知られています(※1)が、『歌の大和路』(※2)の中で、初瀬を詠んだ歌を、訪れた思い出と共に書いています。
『万葉集』には、大和を舞台にした名歌が多く、本書でも“あこがれの大和奈良”と土屋文明は表しています。
土屋文明は、1930年斎藤茂吉から、「アララギ」の編集発行を受け継ぎ、アララギ派の中心的立場となりました。(※3)
(※1)『万葉集私注 1〜10』(土屋文明 著/岩波書店)(K911.12 マ)
(※2)『歌の大和路』(土屋文明・猪俣静彌 文/田中真知郎 写真/朝日新聞社)(K291.6 タ)
(※3)『斎藤茂吉短歌合評 上下』(土屋文明 編/明治書院)(911.16 サ)
霜山徳爾から土屋文明へ (『図書館だよりvol.76』掲載分)
霜山徳爾は、『人間の限界』の中で、限界を知り、できることとできないことがあることを分別することは重要であり、そこにこそ人生の意味があると、述べています。
人間をみつめて、私たちの足(私たち自身)は、大地なのかもしれないと著しています。最初の人間「アダム」とは、ヘブライ語で「大地」を意味しています。
この歌は、昭和9年、土屋文明が45歳の時の作品です。(※1)
(※1)『土屋文明歌集』(土屋文明 自選/岩波書店)(911.16 ツ)
V.E.フランクルから霜山徳爾へ (『図書館だよりvol.75』掲載分)
『夜と霧』(※1)は、フランクル教授自身の、ドイツ強制収容所の体験が記録されています。
アウシュヴィッツだけでも、三百万人の尊い人命が、絶たれました。その中を奇跡的に生き延びた一心理学者は、冷静に「限界状況」における人間の姿を理解しようとしています。その姿は、時には明るささえ感じさせるほどの強さがあります。
フランクルは、極限状態の中での救いは、「愛」だと判ったとも書いています。
この本の訳者霜山徳爾も、フランクルと同じく、心理学者です。(※2)
(※1)『夜と霧』(V.E.フランクル 著/みすず書房/1985年出版)(946 フ)
(※2)『人間の限界』(霜山徳爾 著/岩波書店)(114 シ)
ジョン・ロールズからV.E.フランクルへ (『図書館だよりvol.74』掲載分)
『正義論』(※1)は、「個人のかけがえなさと自由が認められること、社会が誰にとっても暮らしやすいものであること」を追求したロールズの正義論です。
というロールズの言葉は、支配的な伝統をなしてきた功利主義に対して、個人のかけがえなさと自由が認められること、社会が誰にとっても暮らしやすいものであることが、公正としての正義だと主張しています。その背景には、彼の戦争体験があります。レイテ島での攻防戦やルソン島での戦友の死、そして一番影響を受けたのが、ナチスでの大量虐殺の映像です。
戦争の悲惨さと生存の偶然性を突きつけられるうちに、神の正義ではなく社会の正義へと関心を向けていきます。1996年に は広島・長崎への原爆投下が道徳上の不正行為だったと断言しています。
彼をそこまで言わしめた「ナチスの強制収容所」を体験した精神医学者に、『夜と霧』(※2)の著者V.E.フランクルがいます。
(※1)『正義論』(ジョン・ロールズ 著/紀伊国屋書店)(321.1 ロ)
(※2)『夜と霧』(V.E.フランクル 著/みすず書房)(946 フ)