浮穴和義(うけな かずよし)広島大学大学院統合生命科学研究科 教授・Distinguished Professor (DP)
名字は、「うけな」と読みます。愛媛県今治市出身。1971年10月生まれ。
広島大学理学部生物学科動物学専攻(平成2年入学)で博士課程前期まで6年間過ごし、その後、筒井和義先生の下で総合科学部と生物生産学部の共通大学院であった生物圏科学研究科博士課程後期・総合科学部助手を経て、総合科学部在籍10年目に助教授となり、浮穴研究室を立ち上げました。専門分野は脳科学・動物生理学ですが、狭く言うと神経内分泌学や進化脳生物学(これは私が勝手に名付けました)という研究分野です。2006年からは完全PIとなり全く新しい研究分野を確立すべく悪戦苦闘しています。
『広大「人」通信』の
記事
(第99号・2019年2月取材)
研究室紹介として、広島大学総合科学部報である「
飛翔
」に記事が掲載されました(2016年3月第89号)。
内容は自己紹介ですので、PDFファイルを許可を得て掲載します。大学学部生向けです。
Researchmapへのリンク
1990年3月 愛媛県立今治西高等学校 卒業
1994年3月 広島大学理学部生物学科動物学専攻 卒業
1996年3月 広島大学大学院理学研究科生物科学専攻博士課程前期 修了
1998年3月 広島大学大学院生物圏科学研究科博士課程後期 2年次終了時中途退学(助手採用のため)
1998年4月 広島大学総合科学部 助手
1999年3月 博士号(学術)取得
2005年4月 広島大学総合科学部 助教授
2006年4月 広島大学大学院総合科学研究科 助教授(大学院講座化による。翌年より職名変更により准教授)
2006年9月 Principal Investigator (PI、研究室主宰者)
2013年2月 広島大学 特に優れた研究を行う若手教員(Distinguished Researcher; DR)
2015年11月 広島大学 特に優れた研究を行う若手教員(Distinguished Researcher; DR)2期目
2016年2月 広島大学大学院総合科学研究科 教授
2016年8月 University of California, Berkeley校 Visiting Professor(2017年9月まで、科研費・国際共同研究)
2018年11月 広島大学 特に優れた研究を行う教授職(Distinguished Professor; DP)(任期は2028年3月末まで)
2019年4月 広島大学大学院統合生命科学研究科 教授(新研究科設置のため配置換)
日本学術会議:連携会員(平成29~令和4年度)
日本動物学会:広報担当理事(平成28~令和元年度)、広島県委員(平成20~27年度)県例会を毎年3月に開催
日本比較内分泌学会:幹事(平成23~26年度、平成29~令和2年度)、大会開催事務局長(平成20年度、平成27年度)、広報委員(平成12~20年度、平成27年度~)、学会誌編集担当(平成12~15年度)、若手交流会小委員会委員長(平成25~26年度)
国際鳥類内分泌会議:国際委員(平成29~令和6年度)
日本比較生理生化学会:評議員(平成24~27年度、令和2~3年度)
ペプチド・ホルモン研究会:世話人メンバー(平成24年度~)平成24年研究会開催
これまでの研究内容
広島大学理学部・大学院理学研究科博士課程前期時代(平成5~7年度)「無脊椎動物からの神経ペプチドの同定と機能解析」
広島大学大学院生物圏科学研究科博士課程後期時代(平成8~9年度)「脊椎動物の脳における神経ステロイドの同定と機能解析」
広島大学総合科学部助手時代(平成10~16年度)「脊椎動物の脳における神経ペプチドの同定と機能解析」
広島大学総合科学研究科助教授・准教授以降(平成17年度~)「脊椎動物の脳における新規脳内物質の同定と機能解析」
極めて個人的な自己紹介(2006.5作成)
生まれたときは体重2460gという未熟児一歩手前でした。しばらくお乳も上手く飲めず、挙句の果てには脱腸になり1月以上入院していました。両親はヤバイかも・・・と思っていたそうですが、当時の面影は今は無く肥満体です(トホホ・・・)。
その後は、4つ上の姉にくっついてオルガン、そろばん、習字など色々やりましたが、どれも才能無くすぐやめました。唯一姉のやっていなかった剣道だけは大学卒業後まで続けました(最近は全くやっていません)。実家の周りは田舎でしたので、泉堀(湧き水でできた溜池)での釣りや昆虫採集ばかりやっており、とにかく生き物好きでした。性格は極めて内向的で、授業参観の日でもクラスで私だけ手を挙げなかったことを今でも親はよく覚えています。
愛媛県立今治西高校で学びました。高校野球でも有名な学校でしたが、当時野球部は親睦大会も含め1勝も出来ないどん底の冬の時代でした。進学校であったため、勉強に関して私はさっぱりオチコボレでした。根っからの天の邪鬼だったのでしょうが、宿題を一切やらない生徒で、授業中は大概床に正座させられていました(これは大学生になっても改善されず、授業や実験のレポートなどもあまり出さず大学でもオチコボレでした・・・。うーん、性格はなかなか直らないですね)。
野球部はその後、好投手藤井秀悟選手(今治西高→早稲田大→ヤクルトスワローズ)の活躍で春の選抜ベスト4まで行きました(そのとき私は大学院マスターコース2年になるときでしたが、阪神大震災直後で応援には行けませんでした)。今の今治西高野球部の大野康哉監督は中・高校と同級生でした。先日(2006.5.5)の春の四国大会でも優勝したようなので、夏の大会も甲子園目指して頑張って欲しいです。遠くから応援しています。
高校2年生のころ、脳の中にはエンケファリンという脳内麻薬があって、快楽が起こることを知りました。剣道をやっていたときに感じる気持ちよさはどうやって起こるのだろうと興味があったので、大学ではこんなことを研究してみたいなと思っていました。高校3年時の担任だった白川三郎先生は、マラソンランナー兼化学の先生でしたが授業中にラムネ爆弾やドブロクの作り方を真剣に教えていた
怪しい
実験好きの先生で、理学部だと実験がやりたい放題だと教わり、大学では理学部入学を志望しました(白川先生は都立大理学部を8年経験した世捨て人っぽい先生でした。今は婿養子先のお寺で住職もされているのでしょうか?)。
大学学部生時代(4年間)
愛媛からは出たいと思っていましたが、田舎者だったので大都会には恐怖を感じ結局愛媛の対岸の広島(それでも広島市の本通りを普通の日曜日に通って、今日は何かの祭り?と感じました)を選び、広大理学部生物学科に入学しました。広大東広島キャンパスは、実家の今治から2時間程度で行き来できるので便利です。やはり、神経生物学に興味があったので、総合科学部で世界に誇る神経生理学の研究をされていた小林惇先生(現名誉教授)・宗岡洋二郎先生(現名誉教授)や安藤正昭先生(元副研究科長、現名誉教授)などの講義はもぐりで受講していました。しかし、興味の無いことはあまり勉強せず、上記の通り不真面目な学生だったので何とか単位を揃えて卒業をさせてもらいました(成績は、いわゆるカヤマユウゾウ状態でした)。大学時代に熱中したものはとにかく体育会剣道部です。剣道の腕はボチボチでしたので、大会運営を切り盛りする裏方として全国各地を飛び回りました。中四国地区のまとめ役をやらせていただいたことはその後の人生でも大いに役立っています。まさにお金で買えない経験でした。また、大学時代死ぬほど身体を鍛えたことはやはり財産ですね。
学部4年次には情報生理学講座(元動物生理学講座)の松島治先生(のちに広島工業大学へ移動)のもとで卒業研究をすることになりました。このとき、松島先生の学生として私と近江智行君が配属されました。近江は学部でも秀才で弓道部でも部長という文武両道をいく優等生でした。彼のすごいところは学部4年生にして実験手法を全て一から組み立てて実行する能力があり、私は彼の後を追うように実験のいろはを学びました(彼と出会わなかったら今の私は無いでしょう)。2人のテーマは環形動物からの生理活性ペプチドの探索と機能解析でした。当時総合科学部も東広島に移転したばかりで、松島先生のペプチド研究の師であった宗岡先生のHPLCを使わせてもらうために日曜日にちょくちょく総合科学部に来ていました(安藤研の学生にHPLC泥棒だと間違われたこともあります)。宗岡先生は日曜でも休むことなく黙々といつも実験をしておられました。いずれにしても松島先生や宗岡先生の「つべこべ言わず自分の背中を見て育て」式の教育方針は凄まじいものがありました。お二人の先生ともに、口数少なく、しかし内に熱い思いを秘めたものをお持ちで、今でも私の理想とするところです。
マスターコース時代(2年間)
学部4年時はやはり剣道部の仕事が多くて研究一筋とはいきませんでしたが、マスターコースでは研究にひたすら打ち込みました。理学部3年間で浮穴と近江でのファースト及びセカンドオーサーの論文は8報にもなりました。松島先生はかなりの放任主義者だったのも幸いしてか、研究の楽しさを思う存分味わうことが出来ました(たまに調子に乗って近江と遊びすぎると説教されましたが・・・)。
マスターコース修了を控え、自分の中では研究への達成感があり(学科でも一番働いた自負がありました)、企業への就職を希望しました。某製薬会社への内定も決まり、あとは修士論文発表会を迎えるだけとなった間際に一大決心をして就職を取りやめてどんでん返しでドクターコース進学を決意しました。
過去に理学部情報生理学講座から総合科学部の宗岡研に進学した先輩が2人(池田哲也さんと高橋俊雄さん)おられたのも影響してか、私も総合科学部のドクターコースへの進学を希望しました。松島先生の友人である筒井先生とはマスターコースからバインディングアッセイを教えていただいていた関係もあり(筒井先生には初めて温血動物の解剖の仕方を教わりました)、宗岡研の隣の筒井先生の下でお世話になるとことになりました(その時点で宗岡先生は定年2年前でした)。
ドクターコース時代(2年間)
筒井先生は、早稲田大→広大理学部→神戸大→広大総合科学部と移動され私が学部4年次に総合科学部に着任されていました。私がドクターコースに進学したときには筒井研の同級生の古手川君や臼井さんもマスターコースを修了して研究室を出たため、私が筒井研の学生の長となりました(当時学生は私を含め3人でしたが)。宗岡研には学年2つ上の高橋さんや学年1つ上の大谷政博さんなどの優秀な先輩がおられました。筒井研では学位論文のテーマとして神経ステロイドの研究をさせていただきました。
助手時代(7年間)
ドクターコース2年終了時に筒井先生の助手が公募され、応募したところ助手にしていただきました(博士号を持っていない学生を助手にするなどけしからん、という意見も多々あったそうです)。私の最終学歴は広大理学研究科博士課程前期修了です。助手1年目は生物学実験や生命科学実験を初めて担当したことや、動物学会も広大で開催されたりと色々とありましたが、何といっても自身の博士号申請があり大変でした。ドクターコースをきちんと修了していないので、規定ではマスターコース修了して丸4年経っていないと学位申請できないところを、飛び級扱いとして3年で博士号を頂くことが出来ました。これも筒井先生のご努力の賜物です。その後も若い助手ということで、研究室の学生(同級生や8つ年上という学生もいましたので)からは色々と批判・不評・摩擦も多々ありましたが、何とか黒子に徹して筒井研が上手く回るように(業績が上がるように)自分が出来ることを頑張ったつもりです(やはり精神的にはキツイものがありました)。筒井研を卒業した学生さん達は、筒井研で研究生活を送ったことを自信にして社会人となっても頑張っていることと期待しています。
一方、1999年ごろからサントリー生有研の南方宏之先生との共同研究で軟体動物のタコのGnRHの研究をすることになり、岩越さんと再会しました(彼女は宗岡研の同級生だったので私は覚えていましたが、彼女は記憶にありませんでした)。彼女はとにかくずっと話していないと死んでしまうようなおしゃべり好きな人なので私とは一見正反対の性格のように感じられますが、研究のバックグラウンドが同じであったために意気投合し、宗岡先生の仲人の下、2001年12月に結婚することとなりました(この年はアメリカの同時多発テロ事件が起こったりと新世紀初頭としては今後の人生に不安を感じさせる年でもありました)。実際、結婚1年半後には、父が肝臓ガンで急死するという事態もあり、妻には看病を含め色々と迷惑をかけました。当時私は32歳で父は64歳でしたが、あと二倍生きれば私もあの世か・・・とシミジミ死について考えたりもしました。いつまでも親のすねかじり者で、結局孫の顔を見せられず親不孝者でした。
研究の話に戻ると、助手時代は新たな神経ペプチドの同定手法を開発したりして順調に過ごせました(実際は日々悶々としていたのですが)。学位を取得して5年ほど経つと、そろそろ独立を考えたほうがよいといったアドバイスや、実際誘ってくださる先生方も現れ、次第に独立への気持ちが高まってきました。留学の話はことごとく先延ばしされましたので(もはや諦めました)。
助教授時代へ
そうこうしていたら総合科学部の大学院重点化の話が進み、助教授にしていただくチャンスをもらいました。33歳で独立して研究室を構えることはなかなか日本では出来ないので、非常にラッキーでした。これも筒井先生や安藤先生をはじめ多くの先生方のお陰です。総合科学部は、以前より大講座制なので個人研究室ごとに研究が進められる利点があります。
2005年度の助教授1年目は助手の仕事も半分しながら(後任助手が決まるまで助手の仕事も兼ねるということでしたので)、筒井先生との共同研究の仕事を片付けることに専念しました。また、財団等への助成金申請に明け暮れました。とにかく、「若くして研究室を構えることが出来たが、研究費が無い!」を売り言葉に泣きのお願いでした。大きいものは当たりませんでしたが、小さいもの(もちろん大変貴重です)が予想以上に当たり、実験機器も次第に揃えることが出来ました。妻も、酒類総合研究所でのアルバイトを辞めてもらい、2005年秋から私の研究の手伝いをしてもらうように頼みました(報酬は酒総研の1/10程度しか出せていませんが・・・)。ただ、今まで研究生活12年程度送ってきましたが、私自身の研究を誰かに手伝わせた経験がないので、人を使うことに慣れておらず、妻といえども研究の指示をすることの難しさを感じました(ずっと人を使うより自分で動いたほうが良いという考えでしたので。また、助手の身分では学生をつけることは出来ませんし)。ただ、会議等の間に実験を進めてもらうことが出来たのは助かっています。もっと大きな研究費が取れたらポスドクの身分で雇いたいと思っています。
2006年度より浮穴研究室も2年目突入となりましたが、1年目に講義をしていなかった関係で新4年生の卒研配属希望者もおらず、また一人研究室となりました(その後、県立女子大の卒論生の沖本さんを預かることとなりました)。ただ、今年からは講義が始まりましたので、その準備で手一杯の感じがあります。先輩の先生方を改めて尊敬している今日この頃です。各種委員会も多いですし。ただ、教養教育の楽しさもたまに感じるので、やりがいも出てきました(授業でうける(手応えを感じる)のはフェニックス入試の熟年の学生さんたちだけですが・・・。やはり、教養は無理して教えるものではなく人生経験によって身につくのでしょう。我々はそれをサポートする以外手はないということでしょうか?)。
また、今年は研究面では筒井先生が9月より早稲田大に移動されることが決まり、物心両面で支えていただいていただけに、試練の始まりとなります(筒井先生が出るなら浮穴も一緒に追い出せという声もあるようですが、私は総合科学研究科で奮闘します)。一方、私生活では結婚5年目にして待望の第一子が来週には誕生する予定ですので、生活も一変することでしょう。
いずれにしても私自身まだまだ「ひよっこ・おやじ」です。
助教授・准教授時代を振り返って
(雑感欄2015年3月の記事を転載)
2005年度に助教授(2007年度から職名変更で准教授)に昇任して2014年度終了時点で丸10年経ちました。ちょうど区切りが良いので、この10年間を振り返ってみたいと思います。助手の7年間よりも、はるかにあっという間で、少しだけ辛くて、それ以上に楽しく、濃いものでした。
最初の1年は見習い期間でした。一人での作戦会議でした。コツコツ安打製造機に徹するか、ホームランを狙いに行くべきか、結局は後者にすることにしました。ただ、今まで一本もホームランを打った経験がありませんでしたが。もちろん、今でも打てていないのですが・・・。
以降の9年間は、3年周期で研究室が動いていたように感じます。
2006~2008年度は種蒔き・つぼみ探しの時期で殆ど学生さんもおらずに暗中模索状態の第一期でした。かなり心身共に苦しい時期でした。転出されたボスの偉大さを痛感し、自分の非力さを恨みました。
2009~2011年度は古満さんや大口君らが入室してくれ、少しずつ芽が出てきた苗を育てていきました。この時期はペプチド産出ができないとどうしようもない時期でしたので、古満・益田さんらが中心となりペプチド産出を目指していました。そして、少しできたペプチドを使っての機能解析でした。再現性は?幻データか?捨てデータか?というのがこの第二期の後半の日常でした。上手く行かないことの方が多く、手の打ちようがなく途方に暮れていました。上手く育つのか、このまま枯れてしまうのか、崖っぷちの瀬戸際でした。ただ、言えることはこの時諦めていなくて本当に良かったということだけです。
2012~2014年度の第三期は、優秀な人材が集まり、一つの突破口を皮切りに一気にデータが蓄積してきました。黄金期と言っても良いほど、恵まれた時期となりました。生研センターや大型科研費の採択が続き、2013・2014年度はピークとなりました。浮穴も研究の世界で少しずつ認められてきた実感があり、これも研究室メンバーのおかげです。「広大にも面白い研究している若手(もう中堅ですね)研究者がおるなー」ということが拡がってきたと思います。特に、科研・新学術領域の班員に4年間加えていただいたことは大きな収穫でした。医学系の著名な先生方の前で、当初はかなりしょぼいデータを話していましたが(本当に何もデータがありませんでした)、今は胸を張って素人の特権である「知らぬが仏」といった具合で発表させて頂いています。どんなベテランでも皆最初は初心者だと都合よく考えています。自分でも成長できた3年間でした。学生達も研究での壁を乗り越える努力に比例し、成長が目に見えて分かるようになり、先生冥利に尽きる経験を沢山させてもらいました。ありがたい思いでいっぱいです。
この10年間を振り返ると、本当に色々な経験をさせて頂きました。講義、学内運営、学会活動、研究活動とそれぞれ内容は異なりますが、取り組んでいる際は大変だった分、充実した期間でした。どれも私なりに手を抜くことなく全力で取り組んだという気持ちはあります。隣の研究室にいらした安藤先生が私が助教授になるときに言われた言葉として、「助教授時代が一番仕事ができるのだから、時間はかかってもいいので焦らず頑張れ」というものでした。今思えば、この10年間、業績は二の次にして難しいテーマに果敢に挑戦できた自由な環境とそれを辛抱強く支えてくださった周囲の先生方・学生達の皆様のおかげです。これまでの研究者人生を振り返ってみて、マスターコースの大学院入試の時、ドクターコースへの進学の時、助手にしてもらった時、助教授にしてもらった時、学生が一人も研究室に来なかった時、上手く研究が進まなかった時、学会賞を受賞した時、研究助成が採択された時、学内の大型プロジェクトが採択された時など、見えない何らかの大きな力が働き、私を救ってくださったと感じます。周囲の大勢の方達の存在や良縁に恵まれたからに他なりません。
ただ、哀愁に浸っても、これで引退とはならないので(2015年で卒研開始から22年が経ちましたが、定年まであとちょうど22年あります)、次の新たなステージへ進むためにも、これまで以上に頑張りたいと思います。次の3年間はいよいよ大輪の花を咲かせ、実ったものを収穫し、それを売りに出す時期だと思います。高値で売れるか安く売るかは私次第です。他の人よりも多くの時間と費用がかかってしまったのかもしれませんが、自分なりの進め方でやるしかないと半分は開き直っています。
そろそろ締めますが、この10年で得られた有形無形の財産を有効に使い、さらに上を目指していきたいと思います。10年後、これまでの10年間よりもさらに飛躍できていればハッピーです。つまり、今が頂点ではなく今を踏み台とし、ジャンプできたらよいと思います。何故か私の人生は、結果オーライで上手く行っているような気がしますので、地道に頑張りたいと思います。安藤先生がドアに貼られていた「謙虚に、ひたむきに、感謝の気持ちで」を忘れないようにします。今まで支えてくださった大勢の先生方や学生達に恩返しをするためにも今後も精進を続けたいと決意を新たにしました。
2006.5 女児誕生しました(母子ともに健康です)。
2006.7 今治西高野球部 3年ぶり9回目の夏の甲子園出場決定。大野君おめでとう!甲子園での活躍も期待します。<甲子園その後>健闘しました!最後は劇的な延長サヨナラ負けでしたが、ベスト16まで行きましたね。大野君お疲れ様でした。お陰でお盆休みを楽しく過ごすことが出来ました。大会屈指のスラッガー・宇野選手や2年生好投手・熊代選手は、必ずプロでも活躍できそうな勢いを感じました。このホームページがきっかけで今西18回生の先輩(私は41回生)からも連絡を頂いたりしました。ちなみに、今治の特産はタオルで、汗っかきの私は以前よりハンカチタオルを愛用しています。ハンカチ王子の斎藤君(早実)ならぬ、ハンカチおやじですが、、、。
2015.3 助教授・准教授10年間の振り返りを記しました。
2016.2 助教授・准教授を10年10ヶ月経験し、教授に昇進しました。本当は新年1月からの教授昇進予定でしたが、直前に学長の全学人事凍結の話が噴き出し、一月先送りとなりました。このあと、学内昇進者は必ず学長との面談が実施されることになったようですが、私はギリギリ面談なしでした。面談があったら却下されてたかもしれませんね(!?)。ただ、2006年9月からPIでしたので、実際のところは特に変化はないです。思い返すと広島大学剣道部(学部ではない!?)を22歳で卒業し、33歳で助教授になり、44歳で教授になりました。55歳で引退かもしれません。
2016.8 実際に留学できたのはこの自己紹介を記した10年後でした。夢は諦めずに持っておくものですね。10歳の子供を現地の小学校に放り込んだので、1年後には我々の通訳者に育ってくれました。英語耳は40半ばのおっさんには無理でした。
2020.2 この自己紹介を記して14年ほど経って読み返すと、名実ともに中年・おやじになってしまいましたね。
2024.1 上記の2006.7に記した今治西高野球部OBの
熊代聖人さん
が41回生同窓会に来られました(現・松山商 野球部監督になられている大野君への年始挨拶のため)。昨年から埼玉西武ライオンズのコーチをされているようです。私が感想を書いた年齢と同じ年に熊代さんも今なっているというのを考えると、感慨深いものがありました(何のこっちゃ?)。