大津事件に際しての思し召し
明治24年5月、来日中のロシア国皇太子ニコライ殿下が滋賀県の大津を観光中、警備の巡査に頭部を斬りつけられるという日本の外交上重大な事件が起こりました。このとき明治天皇がただちに東京からお見舞いに向かわれたことがロシア国の側近たちに好印象を与え、平穏に解決されたことは広く知られています。しかしこのとき、皇后もまたご心中を痛められ、ロシア国の皇后に対し、あるいは皇太子に対して取られたご処置がきわめて迅速かつ適切でしたので、ご誠意が十二分に相手に徹底していたことを見逃してはなりません。
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明治23年10月、皇后(昭憲皇太后)は天皇と共に水戸に行啓されて維新勤王の発祥地をつぶさにご覧になりました。
かつて明治天皇がこの地に深い関心を寄せられ、徳川光圀以来の修史事業や、斉昭の勤王の志を称えられたことは、明治8年、東京小梅村の徳川昭武邸行幸の折りに、
花ぐはしさくらもあれどこのやどの
代代のこころをわれはとひけり
と詠じられたことからもうかがわれます。
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明治23年4月21日、皇后は歴代の皇后としてはじめて、奈良県橿原の神武天皇陵と、吉野の後醍醐天皇陵をご参拝になりました。
このうち後醍醐天皇の鎮まる塔尾陵(とうのおのみささぎ)は、山深いところにあり、とくにこの日は天候が悪く雨がいまにも降りだす気配で、側近の香川大夫は心配しましたが、皇后は、
「このたびは花見ではなくて、この御陵に参拝するために参ったのであるから」
とおっしゃり、予定通りご参拝を済まされました。
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かざりの玉のこぼれけるかな
明治10年代の後半から20年代初めにかけて、わが国では欧化主義の風潮がにわかに高まり、鹿鳴館に集う婦人たちはこぞって洋服を纏うようになりました。宮中でも宮廷服として洋服が採用され、皇后は明治19年7月30日、初めて洋服を着用されて華族女学校にお出ましになったほか、外国人との謁見にも洋服が用いられるようになりました。
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明治8年2月、かねて女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が設立されることをお聞きになっていた皇后は、とくにお手許金5000円を下賜されました。
同年11月29日の開校式には、内務卿大久保利通、宮内大輔萬里小路博房以下を従えてご出席になり、次の祝詞を賜りました。
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唱歌「金剛石」
華族女学校(現在の学習院)は赤坂仮皇居に近接していましたので、皇后はしばしばお庭伝いに行啓され、授業のさまを視察されては生徒にお菓子を賜わり、あるいは皇室が編纂した『幼学綱要』『婦女鑑』などの徳育書を下賜されたこともありました。
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華族女学校の創設
明治10年、皇族や華族の子弟のための教育機関として、神田錦町に学習院が創設されました。同じ敷地内に男子部と女子部があり、開校当時生徒数は男子が200名に近かったのに対し、女子はわずかに59名でした。
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十二徳の御歌
上皇陛下が天皇であられた平成6年6月にアメリカ合衆国を訪問された際、大統領主催の歓迎式典で「貴国に対し、わが国が持った関心の深さは、ベンジャミン・フランクリンの十二徳目を題として、私の曾祖父・明治天皇の皇后、昭憲皇太后によって和歌が詠まれていることからもうかがえます」という印象深いお言葉を残されました。
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たぐいないご文藻──お歌に寄せる御心
皇后の秀でたご天分は、とくにお歌のなかに遺憾なく発揮されました。3万首ものお歌を残され、今日でも明治天皇とともに古今たぐいない歌聖と仰がれています。
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三畳のお化粧間──赤坂仮皇居の皇后
明治6年に皇居が炎上したため、両陛下は赤坂の仮皇居にお移りになりました。仮皇居はたいへん狭く、皇后がお化粧やお髪上げをなさるお部屋は、わずか三畳敷きの間でしたから、鏡台を据えて女官がお髪上げを奉仕すると、後ろがつかえて物にぶつかってしまうほどでした。
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内廷改革はみずからの手で
明治維新は五箇条の御誓文にうたわれたように、旧来の悪い慣習をあらため、天地の公道に基づくことを理想のひとつに掲げていました。この理念によって、明治の初年から政治や経済、外交などの諸分野では、めまぐるしい改革が断行されましたが、宮中奥深くの慣習はいまだ旧態依然としていて、容易に改善することができませんでした。その最大の要因は、女官たちが古い慣例を楯にして、維新政府の政策をかたくなに拒んだためです。
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砲弾の雨の中のお見舞い
これはご成婚前のお話ですが、明治元年の早々戊辰戦争が起こり、京都で新政府軍と旧幕府軍が激しい戦いをくりひろげました。御所の御門は固く閉ざされ、それぞれ警護の武士が詰めておりましたが、正月3日、戦いはにわかに激しくなり、砲弾の飛び交う凄まじい音が、当時の皇后のお住まいであった一條家邸内の女御館にも響きわたりました。
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皇后冊立――簡素なご婚儀
ご容姿が美しく、お振る舞いが上品でお淑やかであるばかりでなく、人一倍熱心に学問に励まれる姫君のご様子は、日に日に周囲の評判となりましたが、不幸にも文久3年(1863)11月、14歳の時に父君を失い、その後父のごとく慕われていた兄・実良も慶応4年(明治元)4月に亡くなり、一條家は深い悲しみに暮れました。
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昭憲皇太后は小さい頃から聡明でいらっしゃいましたが、どちらかと言えばやんちゃで、決しておとなしいほうではなかったそうです。
学問の先生は貫名海雲という人で、皇后は7歳の時から、姉君たちと机を並べて漢学の勉強を始められました。
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一條家に仕えた松田はるゑは、昭憲皇太后ご幼少のころを次のように語っています。一條家の躾の一端がうかがわれます。
陛下はお小さいとき魚がお嫌いで、京の水菜の漬けたものや浅草海苔など、あっさりしたものがお好きでした。
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昭憲皇太后は、嘉永3年(1850)4月17日(太陽暦5月28日)、従一位左大臣一條忠香の第三女として京都でご誕生になりました。はじめの御名は勝子といい、富貴君と称されましたが、後に壽栄君と改められ、入内にあたり明治天皇より美子と賜りました。
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