671年、病床にある天智天皇は大海人皇子を呼び、「皇位を譲る」と伝えました。しかし、大海人皇子は「兄は自分を試しておられるのだ」と判断し、「私は、もともと病気がちで、とても国家を守ることはできません。出家して吉野にこもります」と答えました。返答いかんによっては、命を落とす危険もあったこの場面で、大海人皇子はとっさの機転で自らと家族の命を守ったのでした。
このような経緯で、大海人皇子は出家し、夫人である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、後の持統天皇)を伴い吉野宮に向かいました。皇子を見送った臣下の中には、「虎に翼をつけて放すようなものだ」と言う者もいたそうです。
天智天皇の崩御後、大津京にある朝廷では兵力を整え、吉野への食料を運ぶ道を閉ざそうとする動きもみられました。朝廷のそのような仕打ちに、大海人皇子の我慢はついに限界に達しました。吉野を脱出し美濃を本拠として、朝廷と戦うことを決意したのです。
こうして672年、日本古代最大の戦乱である壬申の乱がおこりました。箸陵(奈良県桜井市・現在の箸墓古墳)周辺でも大規模な戦いが繰り広げられましたが、大海人皇子側が圧勝しました。大海人皇子側はつづく瀬田川の決戦にも勝利し、約1ヶ月で壬申の乱は終結しました。敗れた大友皇子は自害しました。
壬申の乱に勝利した大海人皇子は673年、飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となりました。この時初めて、これまでの「大王」(おおきみ)に代わって「天皇」という称号が用いられたとする歴史学説もあります。
天武天皇は、皇族や皇親が主導する政治体制の確立に努め、律令の制定に着手し、国史の編纂を命じるなど、国の礎を築く政治を行いました。
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