大和政権における最大の権力者と言えば、「 聖徳太子 」(しょうとくたいし)とともに日本の政治を牛耳った蘇我氏でした。

日本書紀 」は、「蘇我蝦夷」(そがのえみし)が、我が子「蘇我入鹿」(そがのいるか)に「大臣」(おおおみ)の位を与えたり、一族の墓を「陵」(みささぎ)と名付けたりしたと記されています。

実は当時、これらの行為は天皇にしかできないことだったのです。また蘇我氏は、聖徳太子の子「山城大兄王」(やましろのおおえのおう)一族を殺戮(さつりく:多くの人を殺すこと)しています。このように蘇我氏はとても横暴な人物でした。

これに耐えられなくなった中臣鎌足が、645年(皇極天皇4年)に中大兄皇子らとともに蘇我氏を殺害。この事件は、その年の干支から「 乙巳の変 」(いっしのへん)と呼ばれます。乙巳の変のあと、中大兄皇子が取り組んだ政治改革が大化の改新です。

中大兄皇子は従来の「氏姓制度」(しせいせいど:血縁である氏[うじ]と、家柄・職業を表す姓[かばね]による序列制度)を廃止し、「唐」(とう:7~10世紀に栄えた中国王朝)にならった中央集権国家づくりを進めていきました。

不安定な朝鮮半島情勢

661年(斉明天皇7年)に37代「斉明天皇」が亡くなりましたが、中大兄皇子はすぐには天皇に即位しませんでした。

この当時、海外の情勢は不安定で朝鮮半島では高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)の3国が互いに争っていました。

そして新羅は唐と手を結び、日本と同盟関係にあった百済を攻め滅ぼしたのです。中大兄皇子は百済を支援するために朝鮮半島に派兵。

しかし663年(天智天皇2年)、「白村江」(はくそんこう:現在の韓国、錦江河口)で日本軍は大敗し、日本は結果として、朝鮮半島への影響力を失います。

天智天皇即位後

国防と中央集権化

唐と新羅連合軍が日本に攻め込むことを恐れ、中大兄皇子は九州に防人(さきもり)を置き、水城(みずき:土塁と壕[ほり])と山城を構築。

さらに667年(天智天皇7年)、都があった飛鳥(あすか: 奈良県 明日香町)から、より防御性の高い大津宮(おおつのみや: 滋賀県 大津市 )に遷都し、ここで38代・天智天皇に即位します。

結局、唐による日本侵攻はありませんでしたが、代わりに王や貴族を含む多くの難民が朝鮮半島から日本に押し寄せました。天智天皇は、このなかから才能のある人を積極的に登用。彼らの活躍によって、日本は急速に中央集権国家に移行していくことになったのです。

庚午年籍が起こした大乱

天智天皇が果たした業績のひとつに、670年(天智天皇9年)に完成した「庚午年籍」(こうごねんじゃく)があります。これは日本初の全国的な戸籍です。

これにより朝廷がすべての人民を把握し、年貢の量を正しく算定することができ、さらに大量の兵の動員が可能になりました。

つまり、これまで戦闘と言えば一族同士が戦う小規模なものでしたが、庚午年籍のおかげで大規模な戦闘が生まれてしまったとも言えるのです。庚午年籍完成の直後、天智天皇は山中で行方不明となります。

そして次の天皇の座を巡り、弟の「大海人皇子」(おおあまのみこ:のちの天武天皇[てんむてんのう])と、子の「大友皇子」(おおとものみこ:のちの弘文天皇[こうぶんてんのう])が対立し、「 壬申の乱 」(じんしんのらん)が勃発。この戦いが、天下を二分する大規模な争乱へと拡大したのは、皮肉なことに天智天皇が定めた庚午年籍に影響していたのです。

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